日本の精神文化の源流を輿る旅がしたいなら、熊野古道に勝る場所はない。紀伊半島の山深くを縫うこの古の巡礼路は、千年以上にわたって天皇、僧侶、そして一般の参詣者たちを三つの大社へと導いてきた。2004年、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界遺産に登録され、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路と並ぶ、世界でわずか二つの世界遺産巡礼路のひとつとなった。夏の熊野古道は深い緑に包まれ、滝は水量を増し、そして7月14日には日本屈指の火祭りが那智の大滝のもとで繰り広げられる。
熊野三山——三つの聖地、三つの世界
熊野信仰の中心をなすのが熊野三山、すなわち山中に点在する三つの大社である。熊野本宮大社は三つの川が合流する山間の地に鎮座し、三山のなかでも最も歴史的に重要な存在だ。明治22年(1889年)の大洪水で本殿が流失する以前の旧社地・大斜原(おおゆのはら)には、高さ33.9メートルの日本一の大鳥居が立ち、かつての荘厳な境内の規模を今に伝えている。再建された社殿は小高い丘の上にあり、檜皮葢きの屋根が周囲の森に溶け込むように佇んでいる。
熊野速玉大社は新宮の海辺に位置し、朱塗りの社殿が華やかな印象を与える。境内には樹齢1000年のナギの巨木があり、旅の安全を祈る参拝者に人気が高い。
三山のなかで最も絵になるのが、那智山の高台に鎮座する熊野那智大社だ。隣接する青岸渡寺の三重塔と、その背景に落差133メートルの那智の大滝——日本一の直瀑——が重なる構図は、日本で最も多く撮影される風景のひとつ。夏の霧にけぶるその姿を目の前にすると、写真では伝わらない圧倒的なスケール感に息を呑む。
那智の火祭り(7月14日)
毎年7月14日、那智山は日本で最も古く壮大な祭りのひとつの舞台となる。正式名称は那智の扇祭り(なちのおうぎまつり)。国の重要無形民俗文化財に指定され、千年以上の歴史を持つ。
祭りの中心は、熊野十二所権現を象徴する扇形の神輿12基。鏡や扇で飾られた神輿が大社から滝に向かって石段を下りてくる。それを出迎えるように、白装束の奉仕者たちが重さ約50キロの大松明12本を担ぎ、石段を上っていく。燃え盛る松明と下ってくる神輿が石段の途中ですれ違う瞬間——背後で那智の大滝が轟音を上げ、読経が山中にこだまする——は、日本の祭り文化のなかでも特に強烈なイメージだ。
火は単なる演出ではない。松明の炎は祓い清めを象徴し、神々が御神体である滝に還る道を浄める役割を担う。見物の好位置は早い者勝ち。大松明の行列は午後2時頃に始まるが、境内は早くから埋まり始める。最寄り駅はJR紀勢本線の那智駅で、バスで滝・大社エリアへ向かう。
夏の古道歩き
熊野古道にはいくつかのルートがあるが、最も人気があるのは「中辺路(なかへち)」と「大門坂」の二つだ。中辺路は田辺から山中を縫って熊野本宮大社に至る、いにしえの「天皇の道」。全行程は3〜5日間だが、多くの人は景色の良い区間を日帰りで歩く。滝尻王子〜近露(ちかつゆ)間(約6時間)は、古い杉林の中を山越えする人気の区間だ。
大門坂は、樹齢800年の杉並木に挟まれた約600メートルの石段。那智大社への最後の登りにあたり、約30分で歩ける手軽な巡礼体験として人気が高い。
7月の熊野古道歩きには準備が必要だ。気温は28〜32℃、湿度が高く、森に覆われた山道はサウナのような蒸し暑さになることがある。早朝に出発し、一人あたり2リットル以上の水を携帯し、雨具を必ず持参すること。午後の雷雨は珍しくない。多くの区間で石畳が整備されているが、苔むした石は雨上がりに滑りやすい。その代わり、夏の古道は最も緑が深く、季節の雨で滝の水量は最大になり、春秋に比べて圧倒的に人が少ない。
紀伊勝浦——海の玄関口
那智山エリアの拠点となるのが、小さな漁港町の紀伊勝浦(那智勝浦町)だ。この町は生鮮マグロの水揚げ量が日本一で、ここで食べる刺身の鮮度は格別。港沿いには旅館やホテルが並び、船でしか行けないホテル浦島は半島まるごとを敷地とし、洞窟温泉「忘帰洞」で知られる。
勝浦温泉エリアには海を望む露天風呂が点在し、夜明け前の漁港ではマグロ船の帰港とせりの準備を間近に見られる。日の出の港を歩く時間は、山の霊場とはまた違う、静かで味わい深いひとときだ。
アクセス
大阪からは、JR特急「くろしお」で海岸線に沿って紀伊勝浦まで約4時間。名古屋からはJR特急「南紀」で新宮・紀伊勝浦まで約3時間半。各町から大社・古道エリアへはバスが接続する。中辺路を西側から歩く場合、起点の滝尻王子へはJR紀伊田辺駅からバスでアクセスできる。
熊野古道は急ぐ旅ではない。チェックリストを消化するのではなく、森、石、水、空が途切れなく移り変わるその連続性にこそ、千年の巡礼者たちが心を動かされた意味がある。
Image: 青岸渡寺三重塔と那智の滝, CC BY 4.0, Zairon撮影, Wikimedia Commons